「批判」という行為について考える‐私たちは物事を批判するべきではないのか?

こんにちは、甘抹らあです。絵と小説を描く人です。
私は、創作で生計を立てていきたい! と考えて、日々活動しています。

そんな中で目にする意見が
「イラストレーターはSNSでイラスト以外の発信をするな」
というものです。

私のようにお仕事/創作目的でSNSを使っている人に限らず、

  • 「何かをレビューする時に批判的なことを書いてはいけない」
  • 「批判的な発言をすると人に嫌われてしまう」
  • 「そもそも批判という行為自体自己陶酔に過ぎないので、やめるべきだ」

といった意見を、まま目にします。

しかし、私はそうは思いません。

お仕事目的で使っているSNSでプライベートな話をするなというのは、まだ分かります。
(それも本来なら個人の自由だと思いますが、絵を見たい人にとってそれ以外の情報がノイズになるという意見は理解できるのです)

ですが、批判という行為そのものを否定するのはなんだかなという気がしました。

そこで今回は、「批判」について考えてみます。

1.「批判」とはそもそもどういう意味か?

批判とは、そもそもどういう意味なのでしょうか?

手元にあった電子辞書で調べてみると、以下のように定義されていました。

ひ-はん【批判】

1.物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を――する」「――力を養う」

2.人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の――を受ける」「政府を――する」

3.哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。

――デジタル大辞泉より

なお、関連語として設定されていた言葉「批評」の用法のところには、このように書かれています。

 批評・批判――「映画の批評(批判)をする」のように、事物の価値を判断し論じることでは、両語とも用いられる。◇「批評」は良い点も悪い点も同じように指摘し、客観的に論じること。「習作を友人に批評してもらう」「文芸批評」「批評眼」◇「批判」は本来、検討してよしあしを判定することで「識者の批判を仰ぎたい」のように用いるが、現在では、良くないと思う点を取り上げて否定的な評価をする際につかわれることが多い。「徹底的に批判し、追及する」「批判の的となる」「自己批判」

――デジタル大辞泉より

また別の辞書だと、こう書かれています。

 ひ-はん【批判】

 物事に検討を加え、その正否や価値などを評価・判定すること。特に、物事の誤りや欠点を指摘し、否定的に評価・判定すること。

 「国の施策を批判する」「無批判に取り入れる」

 表現:近年「批判される」に代えて、「批判を買う」という言い方があるが、不適切。

――明鏡国語辞典より

 批判

 Criticism英語
 Critiqueフランス語
 Kritikドイツ語

  通常の用法においては、「批評」と同じく、人間の行為あるいは作品の価値を判定することをいう。西洋語では、「批判」も「批評」も、等しくギリシア語の「分割する」と意味する語クリネインkrineinに由来する語によって表されるが、日本語の場合には、「批判」は哲学ないし文献学上の、「批評」は主として文学・芸術上の用語として使い分けられるのが一般的である。

「批判」の語に、哲学用語としての重要なまた明確な意味を与えたのはカントであった。彼は人間の作品の知的、美的また道徳的な価値を客観的に判定するというこの語の在来の一般的用法を受け継ぎながらも、同時にそれをいわば一段上のより普遍的なレベルにまであげて、この期に人間の理性能力そのものの批判という、新たな意味を与えた。これは近代文学や解釈学において、批評が核心的位置を占めるようになることに対応するプロセスであった。[坂部 恵]

――日本大百科全書(ニッポニカ)

こうして見ていくと、本来の意味はデジタル大辞泉にある1.のように、「物事に検討を加えて、判定・評価すること」であったと考えられます。

その後、ニッポニカによると、カントの影響で哲学用語としての側面を持つようになり――これについては今回の主題とはズレるので取り扱いませんが――、より現代においては、否定的な価値判断を下す際に使われることが多くなったという流れのようです。

ですからまず強調しておきたいのは、批判というのは、単に否定的な意見を持つことではないということです。

単に否定的な意見を持つ意味だとみなすと、「生理的に嫌い」とか「特に理由はないけど無理」とか、そういった意見も批判に加えられてしまいます。

しかし、そうではないのです。

批判というのは、きちんとある対象について自分の頭で考えて、吟味して、そのうえで何某かの価値判断を下す行為のことです。

現代的な用法では、そこで下される判定が否定的な時に、特にこの語がつかわれる傾向にあります。

また、この語を使うだけで否定的な判定を下したというニュアンスを含ませることもできるため、肯定的な判定を下したときに「批判」という語を使うのは、誤解を避けるためにもやめた方が良いようです。

2.誹謗中傷・嫌がらせなどとの違い

では次に、“誹謗中傷”や“嫌がらせ”と批判がどう違うのかを考えてみましょう。

こちらも、まずは定義を見てみます。

ひぼう-ちゅうしょう【誹謗中傷】
 根拠のない悪口を言いふらして、他人を傷つけること。

いや-がらせ【嫌がらせ】
 相手の嫌がることをしたり言ったりして、わざと困らせること。また、その言行。「――を言う」「――電話」

――デジタル大辞泉より

私の手元にある辞書だと、「誹謗中傷」の定義が乗っているのはデジタル大辞泉のみで、「嫌がらせ」の定義はどの辞書も大差なかったので、引用はこれだけにしておきます。

こうしてみると、違いは大きく分けて2点あると言えるでしょう。

まず1つ目。根拠があるかどうか
批判は、明確な根拠に基づいて冷静かつ客観的に行われるものです。
対して、誹謗中傷は無根拠に行われるものです。多分に主観的だと言えるでしょう。
嫌がらせに関しては、根拠の有無は問いませんが、根拠があることを条件としているわけでもありません。

2つ目。目的が何か
批判は、対象物に関して価値判断を下すことを目的としています。
芸術作品であれば、それがどれだけ有意義なものなのか、完成度が高いものなのか、社会にどんな影響を及ぼす物なのか、などですね。
一方、誹謗中傷は他人を傷つけることを目的としています。
嫌がらせも、「わざと困らせること」とあるように、相手を困らせ、傷つけることが目的です。

ここが、大きく違うポイントでしょう。

3.批判が行われることの意義

では次に、批判が行われることの意義を考えてみます。

私が思う意義は、大きく分けて三つです。

一つは、基本的人権を守るというもの。
もう一つは、多様な一人一人の人間が過ごしやすい社会を作るというもの。
そしてもう一つは、ある分野に詳しくない人が何かの選択を行う上で参考になるというもの。

一つずつ、順番に見ていきましょう。

3‐1.基本的人権を守る

まず、基本的人権を守るというものについて。

基本的人権とは、すべての人間が等しく生まれながらにして持っている、他者により侵害されることを許さない権利のことです。

例えば思想良心の自由や信教の自由、表現の自由、集会・結社の自由などがあげられます。

こうした自由を担保するためには、批判という行為が必須です。

なぜならば、ある事物に関して一切の価値判断を許さないとしてしまうことは、人の表現の自由を許さないと言っているも同じ事だからです。

また、誰かの行動が他の誰かの権利を侵害している時に、それを指摘できる人が誰もいないとなると、結局は力の強い人の意見ばかりがまかり通ってしまって、弱い人の権利が侵害されることになります。

そのため、力の強い人に対して、力の弱い人が「批判」を行う権利は非常に重要なものだと言えます。

無論、基本的人権が制限されるケースもあります。
それは、公共の福祉に反する場合です。

公共の福祉とは社会全体の共通の利益のことを指し、人権と人権が衝突した際の解決策として生み出された概念です。

社会を構成する全員の基本的人権を尊重することが目指すべき姿ではあるのですが、現実には、人と人との権利が衝突してしまい、一方を立てれば他方が立たなくなるということが多々あります。

そういった際に、社会全体の共通利益を侵害しない方向性で調整を行いましょうね、ということです。

例えば、すべての人に表現の自由が認められていますが、ヘイトスピーチは禁止されています。

ヘイトスピーチだって表現の自由じゃないか! というのはまあもっともなんですが、他者の権利を侵害する行動だから禁止されているわけですね。

こうした調整をどこまで行うのかというのもまた難しい問題です。

しかし、本当に必要な時以外は介入しないのが基本原則でしょう。

以上のことを踏まえると、表現の自由をはじめとする個々人の基本的人権を守るために、批判という行為は重要視されるべきです。

3‐2.多様な一人一人の人間が過ごしやすい社会を作る

二つ目の役割は、多様な一人一人が過ごしやすい社会を作るというもの。

先ほどの話と通じる部分があるのですが、批判が一切行われない社会では、どうしたってマジョリティが優位になります。

マジョリティの意見に対して「それっておかしくない?」と思う人がいたとしても、その人は自分の意見を表明することを許されなくなってしまうのです。

すると、非常に画一的な社会ができあがります。

多様性が失われてしまうのです。

こうした事態を避けるために、批判という行為に意味があります。

3‐3.選択の際の参考にする

三つ目の役割は、ある分野に詳しくない人が何かの選択を行う上で参考になるというもの。

これは一番わかりやすいでしょう。

例えば、映画のレビューなんかがそうです。
ある映画が面白いかどうか、自分に合うかどうかを判断するために、他の誰かのレビューを参考にすることってありますよね?
この時、絶賛するレビューしか並んでいないと、あまり参考になりません。
もちろん、非の打ち所がない完璧な映画ならいいんですが、実際にはそうでないことがほとんどです。

「ここはいいと思ったけど、ここは悪いと思った」とか、「個人的にはここが気になった」とか、具体的な批判が行われることによって、レビューが適切に機能します。

4.自己陶酔に過ぎないのか?

批判という行為は自己陶酔に過ぎないとする意見を見かけることが、たまにあります。

しかしこれに関しては論じるまでもなく、「そんなことない」と言えます。

今まで見てきた通り、批判には非常に重要な意義があります。

したがって、自分の好きなものや自分の作品を批判されたからと言って、逆恨みしたり、冷笑したりするのは不適切だと思います。

誹謗中傷や嫌がらせは絶対に駄目ですが、正当に行われた批判は、きちんと受け止めるべきです。

そしてまた、批判と人格攻撃は別物です。

自分の好きなものや自分の作品を批判されたからと言って、自分自身を批判されたことにはなりません。

ここをしっかりと切り分けて理解することが重要だと思います。

5.まとめ

結論!

批判は、健全な社会を作るために必要不可欠な行為だと言えます。

また、否定的な意見を述べる場合には、根拠を持って冷静に書くことが大切です。

そうでないと、誹謗中傷や嫌がらせになってしまうので。

イラストレーターが仕事用のアカウントで何かを批判することに関してですが、私個人としては、それも咎められるべきことではないと思っています。
デザイン方面のお仕事の場合には別ですが、アート方面のお仕事の場合には、作品に自分自身の思想が滲み出ますよね。
アーティストにとって、自身の思想・意見は何にも代えがたい重要なものです。
そのため、作品を通じてでも、ブログやSNSを通じてでも、意見を発信すること、批判を行うこと自体は積極的に行って構わないのではないでしょうか。

無論、それによって離れていくフォロワーさんはいると思います。
SNSは絵を見るために使っているんだから、ここで思想を表明するのはやめてほしいと思う方もいらっしゃるでしょう。
そうした方に配慮する場合――配慮したいとご自身が思う場合には、意見発信用のアカウントを別に作るか、自分は文章での思想表明や批判をしないと決めるかのどちらかしかありません。

ですが、逆に、思想を表明することによって近づいてくれるフォロワーさんもいるはずです。

今の世の中、絵がうまい人なんてごまんといますから、その中で自分にフォーカスしてもらうためには、絵の他にも何か一つ「売りになるもの」や「特色」が必要なのです。
そうなったとき、自身の意見を表明することで(時には何かを批判するという行為を通じて)、自分と近しい意見のファンを集めることができると思います。

以上、「批判」という行為についてみてきました。
いかがだったでしょうか。

それではまた、別の機会にお会いしましょう。
甘抹らあでした!

Twitter→@amamatsu_lar

甘抹らあの情報はこちら