【何なら許される?】フィクションで悪を描くことについて考える【類型化と私見】

今回は、Twitterなどで時折議論されている話題について、自分が思うところを整理してみようと思います。
ぐだぐだ回です。
テーマは何かというと、現実で悪とされていることをフィクションの世界で描くこと、及びそれを頒布することの是非についてです。
「しずかちゃんのお風呂を覗くシーンは撤廃すべきだ」「人殺しが主役のアニメなんて言語道断!」「汚い言葉遣いを地上波に流してはいけない」などなど、フィクションにおける悪の描き方には、様々な意見が寄せられていることと思います。
※ここでの「悪」とは「道徳的にやってはいけないこと」を意味するものとします。考え方次第で善とも取れるような曖昧なものではなく、「人殺し」「盗み」「いじめ」等です。
これらについて、私がどう思うのかをまとめてみました。
1.類型化
まずは、フィクションの世界で悪を描くという行為そのものについて考えてみます。
一口に悪を描くと言っても、様々な描き方が考えられるでしょう。ここでは、以下の7パターンに大別します。
1-1.悪を悪として描くケース
まず1つ目は、悪を悪として描くケース。
読んで字のごとく、悪いものを悪いものとして描く場合です。
これに関しては、「こういうことしちゃダメなんだよ」という意図がハッキリと伝わるので、特に問題にはならないと思います。
ミステリー系の作品に登場する犯罪行為や、勧善懲悪系のヒーローものに登場する悪役などがこれに当たるでしょう。
(例)
- 『名探偵コナン』の犯罪描写
- 『アンパンマン』に出てくるばいきんまんたち
- ドラマ『相棒』の犯罪描写
1-2.現実とは違うものを描いているケース
次に、現実と同じようでありながら、実はそもそも違うものを描いているみたいなケース。
これは少し分かりにくいですが、“めちゃくちゃ非現実的なもの”を想定しています。
例えば下に挙げるような例に関しては、受け手も完全にフィクションとして受け入れているため、特に問題にはならないのではないでしょうか。
(例)
- 『かいけつゾロリ』のゾロリがやっていることは、もはや人助けである。
- 『ONE PIECE』のルフィたちは、現実の海賊とは異なる。
1-3.悪の裁かれ方が軽すぎるケース
3つ目が、悪を悪として描いてはいるのだが、裁かれ方が本来あるべきよりも軽すぎる(ように見える)ケース。
問題になっているのは、ほとんどがこれだと思います。人によって大きく意見が分かれ、衝突するところです。
(例)
- 『どらえもん』でしずかちゃんの入浴を覗く描写:しずかちゃんが怒っているので「悪」だという認識は共有されているが、のび太たちがあっさり許されている&完全にギャグと化している。
- 『聲の形』のいじめ描写:いじめは悪いこととして描かれているが、いじめっ子たちの許され方が甘すぎるorそもそも反省が感じられないなどの批判がある。
1-4.「悪」について深く考えさせるケース
「悪」について深く考えさせるケース。
これは、「そもそも悪とは何なのか」「どうすれば未然に問題を防げたのか」「個人の問題ではなく社会の問題ではないか」といった内容をテーマにした作品のことです。
漫画やアニメよりも、小説で多く見かけるパターンかなと思います。
(漫画やアニメが単純すぎて悪いなどと言いたいわけではなく、相対的に見た傾向としてそう思うということ)
これらは、今まで言ってきたような意味では、問題になっていないのではないでしょうか。
別の意味で議論にはなりますが、作者はむしろそれを狙って書いている感じです。
(例)
- 社会派の小説や純文学系の作品(特にこれ! と言うのが難しいので、具体的なタイトルは割愛)
- 『進撃の巨人』のマーレ編以降
1-5.悪を肯定的に描いているケース
ほとんど見かけませんが、悪を肯定的に描く作品が存在するのであれば問題になると思います。
文脈次第で、社会風刺やブラックジョーク、問題提起のための作品と解釈されることもあれば、完全にアウトな案件とみなされることもあるでしょう。
あるいは、「これが悪いことなのはみんな分かったうえで楽しんでいるんだよ。フィクションだからOKなんだよ」という作品もあるかと思います。エロ同人とかはこの傾向が強い気がします(小声)
実際、現実世界ではありえないことや許されないことを描けるのが、フィクションの利点の1つです。
具体例を出したいのですが、ちょっと選ぶのが難しかったので、やめておきます。すみません。
1-6.毒を以て毒を制すケース
毒を以て毒を制すケース。
これはすなわち、より大きな悪を倒すためであれば、小さな悪事には目をつぶろうみたいなやつです。
悪の大小を決めるのは難しいですが、たいていは、巨悪(政治家や社長などの権力者)や人殺しに対抗する話が多いと思います。
これらも、全く問題になっていない気がします。
おそらく多くの人には「犯罪者は罰されて当然」という意識があるので、小さな悪事の方は、悪事というよりも単なる裁きに見えているんじゃないかなという印象を受けます。
(例)
- 『アルセーヌ・ルパン』シリーズ
- 『雲霧仁左衛門』シリーズ
- 『怪盗クイーン』シリーズ(特に『サーカスがお好き』と『怪盗クイーンからの予告状』はこの傾向が強いと思う)
……自分ではこういう義賊の類しか思いつかないんですが、他にもあるかもしれません。
1-7.善悪の判断を下していないケース
最後が、善悪の判断を下していないケース。
悪を描きながらも、それが正しいとか間違っているとかそういうことには触れていないもの、すなわち価値判断が含まれないものです。
より単純な言い方をすると、「ただ事実を描いているだけ」ということですね。
犯罪者視点で話が進んでいって最後まで逮捕されずに逃げ切るタイプの物語は、ここに分類されるのかなと思います。それも描き方次第なので、難しいところですが。
他に、時代劇などの舞台設定が現代日本と大きく異なる作品もここに含まれるかもしれません。
※その世界の価値観に基づいて作品を作るので、現代日本の価値観とは相いれない部分がある。だが、そこに善悪の判断は含まれていない。
これらが問題になることも少ないと思います。
というか、これらを問題視してしまうと、もはや、”悪とされていること” や ”現実に存在する/した差別” の内実を伝えることすらできないことになり、かえって社会に悪影響を及ぼすでしょう。
言葉狩りによる表現規制にもつながりかねないと思います。
2.作品の頒布に関して
次に、上記のような作品を頒布することに対する意見です。
描くこと自体は好き勝手すればいいので、問題はそれを人目に触れさせるかどうかですよね。
個人的には、R-18作品(エロ・グロ)等のゾーニングは必要だが、それ以上の規制は不要だと考えています。
というのも、1で見てきた分類はどうしても主観的なものにしかならないからです。
特に1-1以外は、文脈次第・背景次第でどうとでも受け取れてしまいます。
実際に、私の分類を見て、「これは違うんじゃない?」と思った方もいることでしょう。
したがって、ここに規制を設け始めたら言論統制に繋がりかねません。
もちろん、発信する側の人間が、「この描写は道徳的に問題がないだろうか」と吟味する必要はあると思います。
吟味したうえで頒布を取りやめるなら、その判断は尊重されるべきです。
また、作品を受け取った側の人間が「この描写はどうかと思う」などと意見するのも必要なことだと思います。
様々な意見が出ることで、社会が健全に機能していくからです。
もちろん、誹謗中傷や人格攻撃は絶対に駄目ですし、批判する際には批判する側もある程度の論理的な根拠を持っている必要がありますが。
しかし、権力を持った人間が、一方的に規制することだけは避けなければならないと考えています。
そもそも、すべての人間に配慮した表現をすることは不可能です。
どんなに気を付けて書いたところで、それを見て傷つく人や腹を立てる人が、必ず存在します。それは誤読によるものかもしれませんし、そうではないかもしれません。
私自身、言葉には非常に気を遣っているつもりですが、それでも私の文章を読んで気分を害する人はいるでしょうし、自分が過去に書いたものを読み返して「これはアウトでしょ」と突っ込みたくなることがあります。
人間が一人一人異なる環境で育ち、異なる性格や価値観を持っている以上、これは仕方のないことです。
もちろん、だからといって、悪の表現は好き勝手に行って構わない――ということにはなりません。
「表現に気を遣うべきか否か」という、一か百かの単純な二項対立ではなく、表現者自身が納得できる範囲での注意が必要なのだと思います。
この、”納得できる範囲” というのは、他者から「この表現には問題がある」と指摘された際に、「この表現は~~という理由で、問題には当たらない」と説明できるくらい、自分の中で考え抜かれたものであるという意味です。(それで相手が納得してくれるかどうかはまた別の話)
総括すると、創作者の表現の自由を守るために、あらゆる規制は必要ないというのが私の意見です。
その上で、創作者と受け取り手は、自分が納得できる範囲で最大限考えをめぐらしながら、創作物を生み出し、受け取っていくべきだと考えています。
まとめ
以上、今回はただひたすらに、思ったことを書き連ねるだけの回でした。
また機会があれば、「フィクションにおいてどのくらい嘘をついても許されるのか」「ジェンダーをどのように扱うべきか」などについても、考えてみようと思います。
ではまた。
甘抹らあでした!
Twitter▶@amamatsu_lar